プロフィール

■英語とは無縁の幼少期

私は滋賀県北部ののんびりした町で生まれ育ちました。

周囲に外国の方はおらず、親や兄弟が英語を話すわけでもなく、

公立の中学校で英語の授業を受けたのが英語学習の始まりです。

強いて言うなら、滋賀県には工場が多く、

ブラジルからの出稼ぎ労働者が当時少しずつ増え始めており、

通っていた小・中学校にその子供たちがいたので、その時に初めて

「日本語を話さない人たち」に触れたことになります。

■中学で英語を習い始める

そうして中学で「外国語」である英語の授業が始まったわけですが、

教科書が4月に配布された時、とてもワクワクして授業が始まる前から

何度も目を通していたのを覚えています。

中一の時に教えてもらっていた先生が好きだったこともあり、

すぐに英語は得意科目の一つになりました。

毎週のように小テストがあるので、とにかく毎日たくさん音読して覚える。

そうすれば、小テストに加え中間・期末テストでもほぼ満点を取ることができていました。

■これは本物の英語?

ですが、学校の授業には少なからず違和感を感じていました。

時々やってこられるALTの先生や、好きで聴いていたNHKのラジオ英語の

ネイティブの先生の発音はとっても「英語らしい」。

一方で、日本人の先生が話すのはいわゆるカタカナ英語。

これは「本物の英語」ではない、アメリカに行ったら先生の英語は通じない、と

日本人とネイティブの英語の「音の差」に、大きな違和感を感じていたのです。

■14歳で芽生えた想い:「日本の英語教育を変えたい」

中・高校生時代、普段は英語の塾に通っていなかったのですが、

中二の夏に一度だけ短期講習を受けたことがあります。

その時、確か「They were far away from the station.」といった例文で

「口分田さん、far awayの意味は?」と先生に指名されました。

私は「遠くに、です」と答えたのですが、先生に

「そうじゃない、”遠く離れて”と訳してね」と修正されたのです。

え?遠くにと遠く離れて・・・物理的に離れてるってことだからほぼ一緒じゃない?と

飲み込めない感情を覚えたことと、普段から感じていた学校で教わる英語への違和感から、

「こんなのおかしい、日本の英語教育を変えたい!」という思いが湧き始めました。

高校に進学すると、教科書の文章量も増え、毎週単語テストもありました。

単語集の丸暗記は本当に苦手&嫌いでしたし、授業で習う受験英語が

「本物の英語」ではないと引き続き感じていたことなどから勉強に熱心になれず、

英語の成績が格別に良かったわけではありません。

それでも「日本の英語教育を変えたい」という思いは強く、

「文部大臣になって日本の英語教育を変えたい」と

進路希望の用紙に書いていたのを覚えています。

高2の担任の先生は英語教師だったので、「お前は俺の教える英語を否定してるんか」とも

言われてしまいましたが、そんなことは気にならないくらい

日本の英語は英語じゃない、これを何とかしたい、という熱い思いを持つ高校生でした。

どうやったら文部大臣になれるか先生に質問すると、

「まず東大か京大に行って官僚にならないと」ということでした。

素直な私はその先生の説明を真に受け、じゃあ家から近いほうの京大に行こう、と

進学目標を決めたのでした。

■2年連続の京大不合格から得られたもの

とは言え、高校の成績は全く良くなかったので、模試は毎回E判定。

一年目は京大しか受験せず、当然のように浪人が決まりました。

浪人時代は色々思うところがあり、予備校には通わず、午前中はアルバイト、

午後は自宅で勉強をするという選択をしました。いわゆる「宅浪生」です。

浪人生の4月には、1か月かけて勉強法そのものを研究しました。

そこで和田秀樹さんの勉強法の本に出合い、適切なタイミングで何度も復習すること

とにかく音読・暗記することを実践したところ、それほど勉強時間が取れていないのに

ウソのように偏差値が伸び始めました

英語も音読による暗記や瞬間英作文を大量に実践していました。

特に成果が感じられたのが、桐原書店の参考書1冊を朝60分、夜60分、

瞬間英作文や音読によって丸暗記する、という方法でした。

このオレンジとピンクの縞模様は、今でもよく覚えています。

ページの左側に日本語、その右側に英訳が載っていて、

日本語を見て英語をすぐに言えるようにする、というトレーニングを継続したのです。

本当に本当に苦しかったですが、3カ月も毎日繰り返し音読していると、

不思議なことにほとんどの日本語が瞬時に英語に変換できるようになっていました。

でもなぜ、この苦しい暗唱をしようと思ったか。

それは、京大入試の英訳問題がとてつもなく難しかったからです。

<京都大学の英語入試問題 (前期日程 2021年)> 

これは2021年の英訳問題ですが、私の受験した1997,1998年も

このくらいの難易度と問題文の量でした。

時間の限られた試験会場で、ゆっくり考えているヒマはない。

だったら一定量の構文や表現を丸暗記してしまおう、と考えたのが

音読&大量暗記を実践した理由です。

結果的に二年目の京大受験も思いは叶わず(数学が大の苦手でした)、

東京の大学に進学することとなったのですが、

浪人生活が終わると、簡単な会話なら自然と口をついて出てくる自分がいたのです。

■独学バイリンガルへの試行錯誤

大学入学直後のTOEICは600点、20代前半で730点、

そして2023年に930点を取得しています。

英検準1級も10年ほど前に取っていますが、近いうちに1級を受験予定です。

30代半ばからは外資系飲料メーカーに勤務しましたが、日常的に翻訳や簡単な通訳を

依頼されたり、外国人コンサルタントを交えたプロジェクトに抜擢されるなど、

私の人生にとって英語はなくてはならないものとなりました。

と言っても決して道のりは順調ではなく、多くの挫折経験がありつつ、

それらをいつも音読と瞬間英作文をベースとして乗り越えてきました。

例えば25歳の時は、2行の英文メールを1通書くのに30分以上かかっていました。

当時は機械翻訳ツールもなく、とにかく間違いが怖くてたくさん検索したり

先輩の過去のメールから使える表現を探していたため、とても時間がかかっていたのです。

そこで言いたいこととその英文をエクセルにまとめてメール作成スピードを上げ、

そのチームに何人かいた派遣社員の中でも、上司から

「口分田さんは英語が得意だからね」と言ってもらえたのが良い思い出です。

27歳の時には、「七田チャイルドアカデミー」の英語講師を数年間経験しました。

1回50分の授業では、幼児に話しかけたり英語の歌を歌ったり、

フラッシュカードを読み上げるなどとにかく途切れることなく、かつ淀みなく

英語を話し続けなくてはいけません。

教室には保護者のお母さんも同席されるのでとても緊張しつつ、

レッスンで話す英語を書き出して音読、丸暗記してレッスンに臨んでいました。

その後より多くの子供たちに出会いたと思い、30歳頃から小学校で英語講師として

公立の小学校2校に3年ほど勤務しています。

ネイティブの先生とのコミュニケーションが辛く、逃げてしまったり日本語を混ぜて

話していたこともありましたが、この時も

「英語は覚えるほど何度も繰り返せば、必ず身に付く」という経験から

必要な表現を書き出し、音読・暗唱して乗り切ってきました。

また副産物として、注意力を保つのが難しい子供たちに教える経験から、

分かりやすく、人の興味を引きながら説明するプレゼン力を付けることができました。

そして現在は外資系の飲料メーカーで、外国人の上司や社外のコンサルタントとも

問題なくコミュニケーションが取れるまでに成長させてもらいました。

インド人の癖のある英語が聞き取れなかったり、

帰国子女の英語力に圧倒されることや

様々なコーチングスクールなどに行ってもそれほど英語力が伸びなかったこと、

宿題が十分に消化できなかったこと、

通訳を頼まれても上手くできなかったことなど色々なチャレンジがありましたが、

日本人が英語を学ぶ時のつまずきやすいポイントに自分自身がつまずき、

一貫した方法でそれを乗り越えてきた経験と、

教える仕事を通して得た人に分かりやすく伝えるスキルが

現在の私の大きな糧となっています。

■日本人を英語が不自由な状態から解放したい

外資系の飲料メーカーでは、帰国子女で何の不自由もなく英語を使って

仕事をする人に数多く出会いました。

一方で、急にマネジメント層が外国人になったことで、

英語ができないことを理由に非常に苦労されている社員や、

昇進を逃す方も多くおられました。

生まれ育った環境によってこんなに差がついてしまうのかと愕然としつつも、

私自身が大量の音読と瞬間英作文で、それほど時間もお金もかけずに

英語を身に付けたことをもっと多くの人に広めたいと思っています。

英語は数か月で簡単に身に付けられるものではありませんが、

目的をはっきりさせ、正しい努力をすれば、大人になってからでも十分に

「自分の言葉でコミュニケーションする」ことは可能です。

正しい勉強法で英語という武器を身に付け、人生を豊かに生きる人が

一人でも増えることを切に願っています。